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2.『Kanon』の「主題」と「様式」
■ ジュヴナイルファンタジーの定義
私は、『Kanon』を、ジュヴナイルファンタジーと定義します。
ここでジュヴナイル(青春文学)とは、信じていた日常との「離別」(冒険や初恋)による少年少女の「成長」の物語を意味し、ファンタジー(幻想文学)とは、「理不尽なまでの不思議。だけど、ふと魔がさして、それを受け入れてしまう」物語を意味します。
ジュヴナイルは作品の「主題」に、ファンタジーは作品の「様式」に、あたります。
■ ジュヴナイルという「主題」
ジュヴナイルとは、「別離」による少年少女の「成長」の物語です。「別離」とは、日常からの逸脱を意味します。少年少女にとっての「別離」、例えば、冒険旅行(スティーブン『宝島』、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』など)や、初恋(バーネット『秘密の花園』、ピアス『トムは真夜中の庭で』など)などが挙げられるでしょう。今まで少年少女が信じていた日常が壊れ、突きつけられた厳しい「現実」(※3)を通して、少年少女が大人へと「成長」する物語です。
ジュヴナイルとは、現代の「通過儀式(イニシエーション)」です。少年少女が大人になるためには、一度、儀式を通過する必要があります。それが、「通過儀式(イニシエーション)」です。そこで云う儀式とは、多くが臨死体験です。今も全世界に残る危険な祭りは、その多くが、特に少年に「死に瀕しかねない事件=臨死体験」をさせることで、少年という肉体に別れを告げさせ、大人へと生まれ変わる作業だとされています。ジュヴナイルは、臨死体験ほどは激しくなくとも、冒険旅行や初恋など、日常ではない体験を通じて、少年少女が大人へと成長する「通過儀式(イニシエーション)」の物語なのです。
ここで、「現実」という言葉と、「儀式」という言葉には、一見繋がりがないようにも見受けられます。しかし、人は、現実を突きつけられたとき、自問自答します。果たして、これでよいものか、もっと別の手段がないか、自分とはどうあるべきか。それが厳しい「現実」であればあるほど、人は内面に遡り、自己を観察します。インナートラベル(内面旅行)と呼ばれる現象です。一方、臨死体験を伴う「通過儀式(イニシエーション)」も、トランスを通じて、事故の肉体を感覚的に喪失し、自己の内面に直面します。そのトランスを導く原因が、薬物によるものか、祭りの熱狂によるものか、様々考えられますが、とにかくそのとき、少年少女は意識を飛ばし、自己の内面へと意識を向けるきっかけを得ることになります。「現実」から自己の内面を考察するか、非現実から自己の内面を考察するかの違いはありますが、結果、少年少女は、大人への仲間入りを果たすわけです。ここでは、多分に象徴的意味合いを含めて、ジュヴナイルを「通過儀式(イニシエーション)」の物語と呼ぶことにします。厳しい「現実」を通じて、『内面に直面する』こと、その点を指して、『通過儀式』と象徴的に呼ぶわけです。
私は、文学の世界に詳しいわけではありませんが、これらジュヴナイルの定義は、そう特殊な定義ではないはずです。
■ ファンタジーという「様式」
一方、私の、ファンタジーに対する定義は、かなり一般的ではありません。少数意見に属するものでしょう。一般的には、「奇跡」や「魔法」というものがでてくれば、それはファンタジーと呼ばれます。「剣と魔法のファンタジー」という言葉もあります。富士見ファンタジア文庫がその代表例です。
しかし、一度でも良いですから、昔話を読み込んでみてください。昔話が原初のファンタジーであることには異論も少ないでしょう。すると、いわゆる「剣と魔法のファンタジー」が、昔話のファンタジーとかなり違うものであることが解っていただけるはずです。「剣と魔法のファンタジー」と言われるものの多くが、むしろ冒険活劇やSF、剣豪物と呼ぶべきものであることが理解できるはずです。「奇跡」や「魔法」がでてきただけでは、それをファンタジーと呼ぶべきではないのです。例えば、ただロボットやワープ技術が出てきただけでは、それをSFと呼ばない人(特に、生粋のSFファンに多いと聞きます)がいるのと同じです。彼らは、ロボットやワープ技術という単語自体にSFを感じる訳ではないのです。ファンタジーの本質もそれと同じで、「魔法」や「奇跡」という単語自体に幻想(ファンタジー)を感じる訳ではないのです。心理学者河合隼雄も、「ファンタジーは、心の底からわき起こってくるもので、当人にとってもどうしようもなく、ファンタジー自身が自立性を持つことが特徴的である」とし、「魔法」「奇跡」をファンタジーの構成要素としていません(『ファンタジーを読む』講談社+α文庫22頁)。「「本格ファンタジー」などと銘打たれている「つくり話」に接して、げんなりさせられることがある。一般にマンガの作品には、このような物が多いように思われる。」とも書いています(同28頁)。
ファンタジーは、SFに対局する概念です(と、同時に、似たもの兄弟の関係にも立つのですが)。両者の違いは、物語の根幹を支えるご都合主義をどう扱うかで分けられます。例えば、死者の復活などです。SFが、空想とはいえ、そのご都合主義を合理的な説明で読者に「説得」を試みる作品であるのに対し、ファンタジーは、敢えて合理的な説明を放棄し、情緒的に読者に「納得」させることに重点を置いた作品です。言葉を換えれば、SFが「理性」に訴えかける作品であるのに対し、ファンタジーは、「感性」に訴えかける作品です。河合隼雄も「割り切って物事を考える考え方に抗するところにこそ、ファンタジーの重要な特性があるのではなかろうか。」と書いています(同37頁)。また、ファンタジーの理論を述語理論と呼び、「感性」に訴えることで読者を「納得」させる論理構造を持つとします(※4)。
従って、この定義に従うとき、例えば、マイケル・ムアコック『エルリック・サーガ』(ハヤカワSF文庫)はファンタジーではなく、SFにあたります。「エルリック」には魔法や神々がでてきますが、ムアコックは、たとえば魔法に混沌の力という定義を与えることで、合理的に説明しようとしています。「エルリック」の世界は魔法という世界法則が支配していると言っているにすぎません。「エルリック」においては、魔法は科学の代用品にすぎず、魔法は不思議でもファンタジーでもありません。むしろ、魔法を合理的に説明しているという意味で、SFと呼ぶにふさわしい作品でしょう。
一方、昔話のファンタジーは違います。何も説明がなく、いきなり、動物がしゃべり出します。動物が婿になりたいといいます。百年の眠りにつかないと呪いが解けないと断言してしまいます。そこにあるのは、そんな不思議たちがちゃっかりと物語の中に居座っているのを、ただ、思わず「納得」してしまう読者だけです。(※5)
ちなみに、児童文学の世界で明らかなように(※6)、ジュヴナイルとファンタジーは、極めて相性がよい間柄にあります。恐らく、「通過儀式(イニシエーション)」がそもそも、儀式という、合理的に説明不可能なファンタジーを有しているからなのでしょう。いつか詳細に検討してみたい問題です。そういう意味で、『Kanon』の「主題」「様式」の選定には何ら問題はありませんでした。
■ ジュヴナイルファンタジーの証明
過去二作、『MOON.』、『ONE』もまた、ジュヴナイルファンタジーでした。
『MOON.』は、多分にSF的ですが、ファンタジーの「太母(グレートマザー)」を作品「様式」に、「母性」(母離れすることであり、母親になること)と「成長」を「主題」に描いた作品です。
『ONE』は、ケルト民話によく見られる「取り替え子(チェンジリング)」「妖精騎士」「神隠し」の「様式」で、「日常」(自分の存在領域。輝く季節)と「成長」を「主題」に描いています。
それに対し、『Kanon』は、様々な民話の「様式」を通して、「失恋」と「成長」を「主題」に描いた作品でした。
三作とも、「幻想」的な風景の下(ファンタジー)、「離別」による少年少女の「成長」を描いた(ジュブナイル)作品群です。
実証しましょう。
確かに、『MOON.』は、様々な機械群が出てくること、また、新興宗教の宗教施設を舞台としていることから、一般的にはSFと受け取られがちです。そしてその印象は、恐らく正しいものでしょう。しかし同時に、『MOON.』には、不可視の力、悪魔の少年と、それを求める大ボスMoon(月)が存在します。前者二つが、語られていない不思議であることは当然として(結局、悪魔の少年とは、何者だったのでしょう)、月が自我を持つなど、現代の科学からすれば、まったくもってナンセンスでしょう。『MOON.』もファンタジーなのです。
『MOON.』の主人公郁未は母離れしていません。だからこそ、自慰によって自分を慰めました。自分から母親を奪った(「離別」)教団に復讐と称して乗り込みました。寂しかったから、母親にかまってもらいたかったから、結局、郁未は一人では生きることのできない弱い女性だったのです。郁未は、母親との思い出という庇護を必要とした人間だったのです。これこそ子供である証拠です。子供は、母親の庇護、包容を必要とします。しかし、いつまでも庇護を求めては、その子供は自立できません。修行中に母との思い出にとらわれるというバットエンドは、太母に飲み込まれるという神話の時代から連綿と続くファンタジーの「主題」といえるでしょう。大ボスMoon(月)は、まさに、「母性」(女性原理、陰性原理)の象徴です。飲み込む母(狂気「ルナ」)と、包み込む母(「ムーン」)、それは表裏一体であり、その両方を肯定してはじめて、人間として人格が完成します(「成長」する)。『MOON.』の最後に挿入される赤ちゃんを抱く郁未のイラストは、郁未が、人格「母性」を完成させた証なのです。『MOON.』は少女のジュヴナイルでした。
心理学か、神話学、民俗学の入門的なテキストをお読みください。おすすめは、河合隼雄『昔話の深層』講談社+α文庫です。私の言わんとするところがご理解いただけるでしょう。それだけ、代表的な「様式」と「主題」です。
『ONE』については、浩平が長森に話すお菓子の国の喩えを思い返してください。
まるでおとぎ話です。そうです。おとぎ話なのです。
みずか=キミは妖精です。
「永遠の世界」は妖精の国フェアリーランドなのです。
これを詩的に表現すれば、以下のようになります。
「にちじょうはこわれる。それは、淡々と、誰も気付かぬ内に忍び寄る」これは、ケルト民話でよく見られる「取り替え子(チェンジリング)」のお話です。
「えいえいんのせかい。それは、子供が夢見た、妖精の国。
誰もが一度は憧れた、常春の国、フェアリーランド。これは、わるいようせいさんに、こころを奪われた、王子様のお話」
「取り替え子(チェンジリング)」の粗筋はこのようなものです。
「ある日、主人公が妖精からお仕事を受けた。ちょっときてくれ。主人公は相手が妖精であることに気付かず、支払が良いからと、安請け合いして、ほいほいとついていってしまう。そこで、主人公の多くは、見てはいけないものを見るという、禁忌(タブー)を犯してしまう。数年後、主人公は帰ってきた。魂を妖精に抜かれて」契約を安請け合いし、妖精(みずか=キミ)に浚われるというあたりが、『ONE』に類似の構造を有しています。私はこれを「妖精契約」と呼んでいます。「妖精契約」の特質は、たとえ安易に結んだ契約であっても、契約した以上は、必ず何らかの形で履行が要求されるという(契約の解除は、およそ叶いません)、理不尽性(だからこそ、ファンタジー)にあります。
『ONE』の「主題」は、「日常」です。幼い日の浩平は、己の弱さ故に「永遠の世界」を呼び込んでしまいました。そんな「永遠の世界」は、今まさに、浩平から絆を奪おうとします(「離別」)。『ONE』は、浩平が「永遠の世界」と戦い「日常」を勝ち取る物語でした。その戦いの過程で、浩平は「永遠の世界」を必要としないほど「成長」しました。『ONE』は、浩平のジュヴナイルだったのです。もちろん、単純に、「初恋」や「絆」に「主題」を求めても良いでしょう。
以上、『ONE』のジュヴナイルファンタジーについては、亜蘭 一人氏が「[Win95]『ONE〜輝く季節へ〜』論評」において、アダルトファンタジーという単語を用いて(ジュヴナイルのファンタジーという、ズバリな言葉も使っています)、同趣旨のことを述べています。ご参考にしてください。
■ 『Kanon』のファンタジー
『Kanon』も、やはりファンタジーでした。各シナリオを検証しましょう。
私が、『Kanon』がファンタジーであるということを改めて実感したシナリオは、真琴シナリオでした。
民俗学に従えば、真琴シナリオは、「鶴の恩返し」に代表される“動物恩報譚”です。その中でも、“動物女房”と呼ばれる類型に分類されます(小澤俊夫『昔話のコスモロジー ひとと動物の婚姻譚』講談社学術文庫)。真琴シナリオの粗筋は、物見の丘の狐が、人のぬくもりを求めて、人間に変化(へんげ)したお話です。もちろん、ストーリーはその後も真琴の消滅へと続きますが(そして、多くの人は、ここでのもの悲しい別れに涙することでしょう)、人がファンタジーを感じるのは、何よりもこの変化という一点です。けものが人語を解し、人のぬくもりを求めて、人に変化する。現実ならば決してあり得ないことです。しかし、プレイヤーの多くは、SFのような変化のプロセスの解説、合理的な説明を求めることなく、真琴の変化を受け入れました。
私はファンタジーを以下のように定義しました。
「理不尽なまでの不思議。だけど、ふと魔がさして、それを受け入れてしまう」物語けものが人に変化する。それは確かに、受け入れがたいまでに理不尽な不思議です。しかし、同時に、プレイヤーは、子狐と戯れる幼少の祐一を描いたイラスト一枚(一月二十一日の夢)で、ものの見事に、その不思議を受け入れてしまいます。それがファンタジーなのです。
秋子「…鈴の音が好きだったものね、この子は」プレイヤーは、ここで、自分が真琴の正体を「納得」した過程を追体験します。「…鈴の音が好きだったものね、この子は」「じゃあ、やっぱりあの子で合っているのよ、真琴は」はっきり言って、まったく合理的ではありません。秋子さんはただ、「じゃあ、…合っている」と、「納得」しているだけです。そして最後に秋子さんは、「夕飯の支度しなくちゃ」と、いともあっさりと受け入れます。
祐一「え?」
秋子「だから、これを贈ったんじゃないの?」
祐一「違います。こいつが…これが欲しいってうるさく言うから」
秋子「そう」
秋子「じゃあ、やっぱりあの子で合っているのよ、真琴は」
しばらく秋子さんは真琴の顔に見入り、そして不意に立ち上がった。
秋子「夕飯の支度しなくちゃ」
名雪「あ、今晩はなんだっけ。手伝うよ」
ふたりのやり取りは、もういつも通りのものだった。
理不尽なまでの不思議・・・・真琴の正体
だけど、ふと魔がさして・・・鈴の音
それを受け入れてしまう・・・「夕飯の支度しなくちゃ」
私の、ファンタジーの定義にぴったりと符合します。
舞シナリオは、『ゲド戦記』「ギルガメッシュ叙事詩」「二人兄弟」に代表される、民俗話学で言うところの“影との戦い”です(LaughCat氏、旧掲示板)。“影との戦い”とは、心理学で言うところの、自分のもう一つの内面たる影(シャドー)との対決の物語です(私市保彦『幻想文学の文法』ちくま学芸文庫)。
舞は、十年前に自分から分離した、五匹のけもの「まい」と戦い続けています。
一月三十日やはり、ここでいきなり理不尽な事象が突きつけられます。自分ではない「もの」を倒すことで、自分が倒れるなど、現実にはあり得ないことです(※7)。そして、その事実に説明もなく、祐一はいきなり、その結論にたどり着きました。ここに、ファンタジーの本質があります。もちろん、五匹のけものが出てくる時点ですでに理不尽ですが、実験動物とか、生体兵器とか言えば、SFにもっていくことが可能である以上、まだファンタジーとは断言できないのです。
思い出してみればいい。
奴らを倒してゆくと共に、舞はその四肢の自由を奪われていった。
そのことに舞も気づいていたのだ。
だから、最後に訪れる結末も知っていた。
最後の一体を倒したとき、自らも共に絶命するという結末を。
そして、プレイヤーは、「まい」の幻視と対面することで、先の飛躍した祐一の結論を「納得」してしまいます。
あのとき、舞は願った。願ったから五匹のけものが現れたのです。その説明は、合理的ではありません。プレイヤーは、願ったから現れたということを「納得」するだけです。そして、プレイヤーの多くは、黄金色の野原に立つ「まい」の幻視を見て、「納得」を実感しました。不思議を不思議のまま受け入れたのです。
魔物が本当に現れてくれたら、と。
そうすれば俺があの場所に居続けると信じて。
そして現れた魔物は、あの日の境遇を生み出した忌まわしき己の力、そのものだった。
それを否定し続けた人生が舞のこれまでだったんだ。
あゆシナリオは、「いばら姫」、一般的に通りがよい呼称を用いれば「眠れる森の美女」です(Pistachio氏)。民俗学では、“ブリュンヒルド・モチーフ”と呼ばれる類型です。北欧神話のヴァリキリー、ブリュンヒルド姫が、英雄ジークフリートに巡り会うまで、呪いによって眠りにつくことから、このように呼ばれています(河合隼雄『昔話の深層』講談社+α文庫160頁)。
あゆシナリオは、具体例を出してファンタジ−であることを実証するのは困難です。具体的にあゆの正体に言及したテキストが見あたらないからです。ただ、あゆがどうやら霊的存在であることだけは、確かなようです。本来ここにいるべきでない存在がまさにそこにいること自体に、大いなる不思議を感じさせます。そこに夢という不合理な手法を用いて、あゆの正体をプレイヤーに「納得」させています。そもそも、科学的根拠など何処にもない、夢の中での出来事にもかかわらず、祐一もプレイヤーも、あゆの正体を「納得」するのです。
まあ、勘の鋭い方でしたら、OPの、翼を広げるあゆを見て、ファンタジー(あゆの正体)に気付かれたことでしょう。そして、「あ、今回はそういう話なんだ」と「納得」されたことでしょう。私も、OPで、あたりをつけた後、一月十日の、秋子さんとあゆとの会話で、ファンタジーを実感しました。
秋子「…月宮あゆちゃん?」理不尽なまでの不思議・・・・あゆの正体
なおもあゆの顔を見ていた秋子さんが、真剣な表情で名前を呼ぶ。
あゆ「…はい?」
秋子「ごめんなさい、やっぱりわたしの気のせいですね」
あゆ「…?」
あゆがもう一度首を傾げる。
俺も同じ心境だった。
秋子「そんなはずないですものね…」
秋子さんはひとりで納得したようだった。
残りの、名雪シナリオ、栞シナリオがファンタジーであるかは、大いに疑問がもたれます。そこには、受け入れがたい不思議が語られていません。名雪シナリオは、名雪の失恋と、秋子さんの交通事故が語られるのみです。栞シナリオは、栞と香理の絶望と、栞の病気が語られるのみです。どれも現実に実在することであり、理不尽ではあっても、そこにファンタジーたる不思議は存在しません。ただ、両シナリオ共に、エピローグ前後で語られる夢という形であゆシナリオに付属し、そこではじめて、あゆの正体と奇跡というファンタジーらしきものが語られるだけです。
夢。ここではじめて、名雪シナリオ、栞シナリオにおいての、あゆの正体が明らかになります。その正体は、(恐らく)霊的存在という、理不尽なまでの不思議です。しかし、プレイヤーは、ここで語られる夢やあゆシナリオを通して、あゆの正体と恐らくあゆが起こしたであろう奇跡の結果を受け入れるのです。両シナリオをファンタジーと断言することは難しいですが、ここで、かろうじて、シナリオにファンタジーの要素(理不尽な不思議)が介入することになります。これは、あゆシナリオ(更に言えば、舞シナリオ、真琴シナリオ)があったからこそできた離れ業で、もし仮に、あゆシナリオが存在しなければ、両シナリオは、ご都合主義に彩られた作品と受け取られたことでしょう。特に、栞シナリオについては、ご都合主義的との批判も多いところです。 ■ 『Kanon』のジュヴナイル
夢が終わる日。
雪が、春の日溜まりの中に溶けてなくなるように…。
面影が、人の成長と共に影を潜めるように…。
思い出が、永遠の時間の中で霞んで消えるように…。
今…。
永かった夢が終わりを告げる…。
最後に…。
ひとつだけの願いを叶えて…。
たったひとつの願い…。
ボクの、願いは…
一月二十九日そこに重ねるような、名雪の台詞があります。「私の名前、まだ覚えている?」幼少の名雪も、雪ウサギのシーンで「失恋」しました。あゆ自身も、自らの「死」をもって、文字通り「恋を失って」います。幼少のあゆも「失恋」しています。
それは、幻だった…。
ひとりの男の子が、初恋の女の子にプレゼントを渡して…。
女の子が満面の笑みで受け取るという…。
そんな、悲しい幻…。
一月二十三日『Kanon』は、そんな三人が再び出会って、「思い出」と共に「失恋」を癒すお話です。「失恋」を癒す方法が、「思い出に『還る』」ことです。『帰る』ではなく、『還る』のです(LaughCat氏、旧掲示板)。ただ思い出に埋没するのではなく、前向きに、元通りに巡る、『還る』なのです。「還元」「返還」という言葉のニュアンスを思い出してください。「失恋」という「現実」を受け入れ、なお、前向きに生きていくために、「失恋」を「思い出に『変える』」のです。「現実」を受け入れること、それは「成長」と同義でしょう。
その瞬間、少女の差し出した雪うさぎは、崩れ落ちていた。
「…祐一…?」
戸惑うように、少女が俺の名前を呼ぶ。
さっきまであった雪うさぎは、地面に落ちて、すでに見る影もなかった。
「……」
目が取れて、耳が潰れたうさぎ…。
差し出した少女の雪うさぎを地面に叩きつけたのは、紛れもなく俺の小さな手だった。
「…祐一…雪…嫌いなんだよね…」
一月三十一日〜エピローグ(あゆシナリオ)両シナリオ共に、祐一、あゆ、名雪は、様々な出来事を最後には思い出に変えています。過去を乗り越え「成長」しました。
声の消えた雑踏。
顔のない人が、目の前を行き交う。
誰も、たったひとりでベンチに座っている子供の姿なんか気にもとめない。
人を待っている。
来ないと分かっている人。
もう会えないと分かっている人を…。
何年も何年も…。
繰り返される夢の中で、
ボクは、ずっと待っていた。
来るはずのない夜明け。
だけど…。
「行くぞ、あゆっ」
「うんっ」
とまっていた思い出が、ゆっくりと流れ始める…
たったひとつの奇跡のかけらを抱きしめながら…
一月三十日(名雪シナリオ)
目を閉じると、そこにはひとりの少女が立っていた。
2本のおさげを揺らしながら、頭の上に、ちょこんと雪うさぎをのせていた。
「ほら…これって、雪うさぎって言うんだよ…」
「……」
「わたし…ずっと言えなかったけど…」
「祐一のこと…」
「ずっと…」
「好きだったよ」
「俺もだ…名雪…」
栞シナリオも、やはり、栞の「死の予感」による祐一の「失恋」のお話でした。同時に、栞も、自らの「死の予感」によって、あゆと同じく「失恋」しています。香理もまた、妹を失うという「別離」を体験します。栞も祐一も、そして香里も、最終的には、栞の「死の予感」という厳しい「現実」を受け入れる形で、「成長」しています。
『奇跡でも起きれば何とかなりますよ』これが、「失恋」「別離」です。
『でも…』
『起きないから、奇跡って言うんですよ』
一月二十八日これが、「成長」です。
香里「余計なお世話じゃないわよ…」
香里「だって、栞は…」
香里「あたしの妹なんだから…」
エピローグそして、思い出に還るのです。
栞「結局、作れなかったですね…雪だるま」
栞「残念です」
季節は巡り…。
そしてまた雪が降る頃…。
その時はまた…。
来るはずのなかった時を、
そして、あるはずのなかった瞬間を、
『起こらないから、奇跡って言うんですよ』
凍った涙、溶かすように…。
「はいっ」
舞シナリオは、舞の「死」による、祐一の「失恋」。また、幼少の舞の「失恋」を描いた作品とも読めます。祐一は一度、舞との幸せな幻視に捕らえかけられます。しかし、舞の悲しい「死」を受け入れ、「現実」を直視しました。舞もまた、「失恋」という現実を受け入れ、直視したからこそ、再生のための「死」を選びました。どちらも、「現実」を直視するまでに「成長」しています。
一月三十日(ここで、祐一とまいと佐祐理さんの共同生活という、幻想が挟み込まれます)
祐一「おまえ、どうしてこんなことするんだよ…」
祐一「ずっと、一緒にいくんだろっ!?」
祐一「春も夏も秋も冬もっ…ずっと一緒に暮らしてゆくんだろっ!?」
祐一「そう今、約束したじゃないかっ…」
…想像もつかないほどに、楽しく平穏な日々。(再び、共同生活の幻想が挟み込まれます)ずっとその温もりに触れていられると思っていたのに…
なくしてしまった気がするのはなぜだろう。
幸せな夢を見ていただけなのだろうか…。
祐一「………」祐一は、舞の死をもって「失恋」します。そして、そのまま、三人の共同生活という幻想、『ONE』でいうところの「永遠の世界」に捕らわれかけます。しかし、ここで祐一は踏み止まり、目を、文字通り、開き(俺はもう一度目を閉じる)、そして、泣きました(すると、驚くほどの量の涙が押し出されて落ちた)。悲しい「現実」を、「現実」と認識した瞬間です。この瞬間、祐一のジュヴナイル、祐一の「成長」は『ほぼ』完結しました。舞のジュヴナイルについては各論で詳細に検討することにしましょう。
すべての音が消えていた。
闇に吸い取られてしまった音はもう取り戻せないのだろうか。
俺はもう一度目を閉じる。
すると、驚くほどの量の涙が押し出されて落ちた。
一月三十日真琴シナリオでも、祐一は真琴の「消滅」によって「失恋」しています。しかし、祐一は、真琴の消滅を「現実」として受け入れました。そして、最後の天野との会話で、祐一も「成長」し、「失恋」の痛手から立ち直りつつあることがプレイヤーに明らかにされています。
ずっと鼓動が止まなかった。
それは長い間、待っていたから。
自分と、そして自分の力たちを、全部受け入れてくれるひとの訪れ。
それをそわそわと、待ちわびていた。
(さぁ、迎えるよ)
「うん」
あたしたちは迎える。
…邂逅の時を。
一月二十五日出会いがある限り、別れの日「別離」が訪れないことなどありえません。ついには、祐一は、悲しい「別離」「失恋」を体験します。
真琴「春がきて…ずっと春だったらいいのに」
祐一「そっか。真琴は春が好きか」
真琴「うん。ずっと春だったら、ずっと元気でいられるのに」
俺はその言葉に、ただ願いを描いた。
祐一「もう少しの辛抱だな…」
俺はそう繰り返した。
エピローグしかし、祐一は、天野との約束を守りました。祐一は、天野にはなしえなかった「成長」を遂げ、最後に思い出に還ります。そんなことは、決まっているのです。 ■ 本当のジュヴナイルファンタジー
俺と天野はこうしてたまに時間を合わせては、話をするようになっていた。
天野「約束は守ってくださっているようですね」
祐一「ああ。元気だけが取り柄のようなもんだ」
祐一「心配ないよ」
天野「そうですか。良かったです」
天野「じゃあ、相沢さんなら、何をお願いしますか?」
くるん、と天野が体をひねって、俺の顔を覗き込んでいた。
祐一「そうだな…」
そんなことは決まっていた。
もちろん、これは、他の「主題」「様式」、例えば、姉妹愛や学園物などを否定するものではありません。しかし、すべてのシナリオに共通する主題、すなわちメインテーマを挙げろと言えば、やはり、ジュヴナイルであるし、全体を通した空気を見れば、その「様式」は明らかにファンタジーといえるでしょう。他の「主題」「様式」はすべて、「主題」「様式」に導かれた「構造」「機能」によって、生み出されたものです。例えば、栞シナリオには、姉妹愛のテーマがありますが、それも、ジュヴナイルを描くための「機能」として、栞のアンチテーゼに、香里が選ばれた、ただそれだけなのです。もちろん、姉妹愛を狙ったという見方は可能ですし、その可能性は、決して小さくありません。ただ、あそこで、香里ではなく、栞の母親(担任の教師)、という選択もまた、可能ではあったのです。その場合、「主題」は母子愛となったのでしょう。あくまで『Kanon』の根本を支える「主題」「様式」は、ジュヴナイルファンタジーなのです。
ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、こちらにお願い申し上げます。